パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

37.あとがき(著者について):【まだ未完成(執筆途中)】

 まず、一番最初に言っておきたいのは、自分は「少数派の味方」であり続けたいと思っている事。なぜなら、自分自身が「左利き」であり「一人っ子」であり「AB型(血液型)」であり「長いものに巻かれる事を好まないタチ」であり、要するに生まれついての少数派だったからだ。
 今となっては左利きも一人っ子も珍しいものではないが、自分が子供の頃は「完全に少数派扱い」を受けていた。そんな訳だから、選挙で自分が選ぶ基準は常に「マイノリティに一番優しそうな政党」と決めていた。
 ここまで書けば、自分がどの政党に一票を投じるかは、おおよその察しはつくだろう。自分を「宗教」や「多数派優遇」の観点から囲い込もうとしても、それは時間の無駄である。

 自分は正義の味方ではない。かと言って悪の味方でもない。あくまでも少数派の味方でありたいと思っている。そんな訳だから、悪人が社会全体から袋叩きに遭っている様を見てしまうと、何とも言えない違和感を覚える。どっちが悪人なのか分からなくなるのだ。
 どっちも悪人じゃねーか、て思う訳。これで自分の行動原理が、読者にも理解できたと思う。自分はよく「おまえはどっちの味方なんだ?」と詰め寄られる事が多いのだが、つまりはそういう事だ。

 自分が一番関わりたくないタイプの人間は「長いものに巻かれて栄えてきた人々」である(特に複数形)。大衆を disれるのが少数派の特権だと思っている。社会的に不利な「自分 少数派 宣言」をしたのも、そのためだ。耳の痛い話が続くと思うが、辛抱して読んでほしい。
 彼らは常に多数派に属す。そしてほとんどの場合、正常性バイアスの発生源となる。要するに自分の行動に自信が持てないのだ。それが余計に金(経済力)に固執させるようだ。
 その結果として、社会に病的な空気を、特に全体主義的な空気を蔓延させる。しかも本人には、その自覚が全くない。彼らは、「孤独」が自立・独立を促す事を忘れ、孤独をネガティブな意味でしか捉えようとしない。
 普段は少数派を冷遇するくせに、何か問題が起こると少数派をも巻き込んでしまう。むしろ少数派に問題を押し付ける。彼らは「責任の取り方を知らない大人」である。
 さらに厄介な事は、資本主義と全体主義が、非常に相性が良い事だ。その結果、無責任な大人が大儲けする事に対して、全く制動が効かない。


(2021.03.14 sun:とりあえず、ここまでは確定とする。以降は「見捨てられた世代」について書く予定。現在、執筆中…つづく)

 

 自分は、自分の事を「見捨てられた世代」だと思っている。それをここで書いておく。ちゃんと自分の素姓を明かしておいた方が良いと思ったので。
 見捨てられた世代。その理由は2つある。1つは、本来ならば一番働き盛りだった筈の30~40歳代の期間が、平成不況の「失われた20年」と丸カブリしていた事。平成不況は、1991年をピ-クとした地価高騰が下落に転じ始めた「バブル崩壊」を発端としている。
 1995年(32歳)、勤めていたデザイン会社が業績悪化で解散。解散前から景気は冷え込んでいて、ほとんど昇給もなかった。その後しばらくはフリ-のデザイナ-として頑張ったが、気が付けば非正規雇用のフリ-タ-に転落していた。

 もう1つは、成長期の少年時代が1970年代の「公害の時代」と重なっていた事。今の若者は知らないと思うが、当時の日本は現在の新興国と大差ないぐらい、公害や環境汚染が深刻な社会問題になっていた。1970年代とは、公害等の負の遺産と引き換えに高度経済成長を為し遂げた時代だった。
 自分は1963年(昭和38年)生まれで今年(2021年)で58歳になる。自分の子供時代(1970年代)を思い出せば、我々の世代が「長生き出来ない」であろう事は容易に想像できる。

 我々はチクロ入りの清涼飲料をガブ飲みし、殺虫剤として日常的にDDTを散布していた時代に子供時代を生きていた。現在では「チクロ」が健康に有害な証拠はない事が分かっているが、それでも様々な合成甘味料や化学物質を、我々世代は子供時代に体内に蓄積してきた。
 建材やエンジン部品には、普通に石綿(アスベスト)が使われていた。自分の記憶では、高校生ぐらいまで車のエンジン(シリンダ)に石綿が使われていた事を覚えている。

 当時の日本は、今のアジア諸国同様の公害が社会問題になっていた。近所の河川は、どこも異臭を放つドブ川で、化学物質(産業用洗剤?)によって泡で覆われることさえあった。夏になれば毎日のように光化学スモッグが発令されていた。
 「成長期」の少年時代が「公害の時代」と重なった事で、我々の体内には有害物質が他の世代よりも多く蓄積されていると想像できる。我々世代は長生きできないのではなかろうか。それを考え始めたのは、実際に50~60代の若さで亡くなる「自分と同世代の有名人」が結構いることに気付いたからだ。

 自分は、たぶん脳梗塞などで死ぬと思う。爆笑~の彼と同様の症状を既に自覚している。冬になると室内でもニット帽を被るようにしている。頭や耳を冷やすとブラックアウトし易いようだ。
 あと、白内障だか緑内障だかが進行しているようだ。自分には無意識に前髪を掻き上げる癖があったが、それは視野の一部が欠落しているのを「前髪が視覚を邪魔している」と勘違いしたためらしい。
 ちょっとした癖が病気のサインになっているとは興味深い話だ。このまま放置すれば、症状の重い方の目から失明していくと実感している。だが、治療する気は全くない。自分は「人生60年」で構わないと、とっくの昔に腹をくくっていたので。


 さて、自分が就職したのは1984年だった。初任給は12万円だったと思う。小さなワンル-ム・カンパニ-だった。
 その後の日本は「バブル経済」と呼ばれた訳だけど、全ての日本人が儲かっていた訳ではない。アレはマスコミの誇張に過ぎない。マスコミは成功体験ばかりに注目し、失敗体験に基づく反省的な話題を扱わないから。

 20代の自分は、グラフィック・デザイナ-として生きるための修行期間と割り切って、薄給に文句も言わず慎ましく暮らしていた。何度か転職を重ね、月給20万円になったのは30代前後ぐらいだったと思う。で、そろそろ修行の成果を回収しようと思った矢先、バブルが崩壊した。
 1990年代後半から2000年代前半の日本は、バブル崩壊の後遺症と、その最中で強行された3%から5%への消費税増税(1997年)、さらに「デジタル技術革新」が偶然重なったことによって「デフレ・スパイラル」が続いていた。

 特に97年の消費税増税は、どう考えても政府の大失策だった。そのツケを払わされたのは、我々の世代以降だ。よりにもよって、平成不況の真っ最中に逆進的間接税の増税をした。ここで「世代間格差の線引」が行われたのだ。
 今後、消費税が増税される度に、若年世代の貧困化が進行する筈だ。消費税は逆進性が強すぎるのだ。
 マスコミは成功体験ばかり注目していては駄目だ。失敗体験の反省を活かすべく、我々「見捨てられた世代」の意見にも耳を傾けてほしい。弱者の意見、少数派の意見を無視した結果が今の状況を作った事に気付いてほしい。

 失われた20年の内、前半の10年は、お金の借り手である企業が設備投資に慎重だったが、その一番の要因はコンピュ-タ・ハ-ドウェアの急激な発展が大きかったと思っている。
 高い金を払って買い揃えたハイエンド・マシンが、1年後にはジャンク品になってしまう程 PC 関連商品のライフサイクルの短さは異常だった。デジタル関連のハ-ドウェアの価格だけが「ハイパ-デフレ」状態になっていたのだ。
 で、メモリや CPU の性能向上が頭打ちになった頃に Windows XP がリリ-スされ、PC の需要・供給は安定期に移行した。それによって、ようやく企業もデジタル化への設備投資を本格化させた。つまり、企業の設備投資が鈍かったのは「日本国内のデフレのせい」だけとは言えないのだ。

 バブル崩壊以降の10年間は「半導体が急激に進歩した時代」と重なっていた。その頃が働き盛りだった世代(30~40代)は皆、かなり無理をして PC を購入したが、PC関連製品は「ハイパ-デフレ」状態に陥っていた。
 半年後には倍の性能の CPU やメモリが同価格、或いはさらに安く供給され、ハ-ドの進化に伴いソフトも急激に高機能化するため、1年も経てばソフトが重くて PC が使い物にならなくなった。PC 自体は壊れた訳でもなく正常に動作していたのに、すぐに使い物にならなくなってしまうのだった。

 しかも、しょっちゅうフリーズした。その度に取引先に電話して、納期延長のお願いをしなければならなかった。相手も多少の事情は理解してくれてはいたが、「またですか…」みたいな事を言われ、自分の信用度が低下していくのを肌で感じていた。
 当時、PC で仕事をするのは、商業ベースのスケジュールが成り立たない状況だったのだ。同時に、中堅デザイナーをさらに不利に追い込む事態が進行していた。
 それは、ハード・ソフトの使い方に詳しい新手が登場した事だ。彼らの多くは「配色バランス」や「レイアウト・バランス」の良し悪しも知らない素人デザイナーだったが、ソフトウェアの使い方には精通していた。なので、彼らに自分の縄張りを荒らされた印象(というか恨み…)を持っている。

 とにかく、ハードのライフサイクルの短さが異常だった。それに対応するため、CPU、メモリ、マザ-ボ-ド、ハ-ドディスクなどを個別に買い替え、気が付けば購入当初の面影が皆無の自作機になっている始末だった。
 さらに、余った部品も有効利用するために自作機を組み上げ、4~5台所有する人も多かった。古い部品で組み上げた自作機には Linux をインスト-ルするのが流行り、お蔭で Linux について随分詳しくなった。

 上記を読んでいると、なんだか楽しそうに見えるかもしれないが、とんでもない話だ。30代を過ぎてから独学でパソコンを習熟するのは簡単ではなかった。当時の自分が知っていたパソコンといえば MSX ぐらいだった。それに、自分が最初に購入した本格的なパソコン及び周辺機器は次の通りだった(1995年3月頃)。

パソコン本体:Gateway2000 P5-90(30万円)
  CPU:Pentium90MHz, RAM:16MB,
  MPU:AMD Mach64,    HD: 1GB,
   OS:MS-DOS6/V + Windows3.1J
増設メモリ :8MB SIMM 2枚 ....(13万円)
MOドライブ :オリンパス製 ....(10万円)
21型CRT   :詳細忘れた ......(30万円)
プリンタ  :Epson MJ-5000C ..(15.7万)
B4判スキャナ:Epson製 .........(19.8万)
透過原稿Unit:Epson製 .........( 4万円)
SCSIボ-ド :詳細忘れた ......( 2万円)
Soundボ-ド :Sound Blaster ...( 2万円)
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ハ-ド合計 :初期投資額 ...(126.5万円)

 上記は、れっきとした「当時の秋葉原価格」だ。当時は、ハ-ドを買い揃えるだけでも軽く100万円を超えてしまっていた。さらにグラフィック・ソフト(Adobe)だって1本8万円以上する時代だった。
 当時、PCの原価償却期間は5年だった。これが1年後にはジャンク品になってしまったのだから、投資分が回収されずに借金ばかり積み上がった。
 そのため、後半の5年を借金返済のために必死に働いてきた。デフレ期に抱える借金は時間と共に相対価値が増していくので、文字通り必死だった。これが自分が体験した「失われた10年」だった。ところが、不況は10年では終わらず、結局「失われた20年」となった。

 我々の世代は、働かざるを得ない30~40代が「失われた20年」とモロにダブったために、時代の流れの中で「カモ」にされてきた。デフレの中、体力のある大企業は設備投資をせず「待ち」を決め込む事ができた。
 デザイン業界も、写植・版下を基盤としたハンドワ-クの時代から、DTP 時代への転換期になっていたので、高額と知りながらもパソコンを導入せざるを得なかった。そして様々な業界からタカられた。
 しかも就職氷河期の一回り前の世代なので、何らかの行政支援を受けた記憶もない。間接税は逆進性が高い消費税になったし、不況から脱した頃には50代になっていたので、社会的には手遅れの世代として見捨てられた・・・ そういう印象を強く持っている。こういう理不尽の積み重ねが「8050問題」を生んだと考えている。


(2021.04.04 sun:とりあえず、ここまでは確定。ここで「見捨てられた世代」が声を上げておかないと、コロナ終息後、問題を先送りにしたまま何もなかったかのように世界は元に戻ってしまう。社会の歪みは今のうちに修正しておかないと、今の若者が20年後に「我々と同じ境遇を味わう事になる」と警告しておく必要がある。なので、もっと書く予定。現在、執筆中…つづく)