パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

30.多数決頼りの民主主義は必ず変質する(立憲主義の危機)

 終戦直後、大多数の日本人は貧乏で弱者だった。多数決が弱者の味方として機能する時代だった。「民主主義=多数決」と考えても差し支えない時代だった。
 ところが、その後の日本は高度経済成長期に入り、日本人の多数派は中流家庭へシフトした。そうなると貧困層は少数派となり、多数決は弱者の味方として機能しなくなってしまった。今の日本での多数決は、民主的とは言えない状況になっている。
 さらに、世代別では「団塊世代」を含む高齢者が多数派を占めている。彼らは選挙権の上位カ-ストだ。彼らの多くは高度経済成長期を経験し、悠々自適の年金生活を送っている。そして彼らの多くは、今の若年層が味わっている絶望感に対して鈍感だ。ただし、高齢者の中にも貧困層は存在する・・・。

 現在、50代以下の年齢層では、老後の年金生活に期待は持てない。それを考えると世代格差の不公平感は半端ないカンジだ。
 現在の高齢者の大半が他界した後の時代では「人生 100年時代」などというスロ-ガンは自然消滅しているに違いない。今後、長生きできるのは経済的に余裕がある一部の人間に限られるからだ。
 先進国社会が多数決だけで運営され続けると、次第に格差が生まれ市民の分断を助長する。そうしないために、多数派と少数派が常に対話を欠かさず妥協点を探す努力を重ね続ける必要がある。民主主義は時間がかかるシステムであることを忘れてはならない。

 多数決重視で政治が進められると「立憲主義」が脅かされる危険もある。例えば、現在の法律には、先人(故人)が支払った多大な代償に対する反省・教訓が込められている。
 それを、今生きている人間の都合で安易に法改正を繰り返すと、いずれ民主主義が骨抜きにされる危険がある。学術会議の問題は、その典型例といえる。「内閣総理大臣の任命権」が追記されたのは昭和58年だとか。その時、野党の追及に対し「任命は便宜上のもので拒否はしない」と明言している。

 今の内閣に「憲法改正」を任せるのは危険過ぎる。国民の多くがそう感じた筈だ。2021年は衆議院選挙がある。国民は民主主義を骨抜きにしかねない法解釈をした政党に投票するだろうか。
 現在の法律を定めた先人の多くは、既に故人となっている。つまり、法律と向き合うことは「死者との対話」に他ならない。特に日本国憲法は「死者の良心」が今に受け継がれたものだ。法律には理由があるのだ。
 それを「こう変えた方がもっと儲かる」みたいな感覚で、今生きている人間の都合だけでホイホイ変えるのは、やはりマズイのだ。それは「死人に口なし」と言っているようなものだ。

 だからこそ法改正には慎重になる。この姿勢を「立憲主義」と呼ぶ。今、世界中で立憲主義が危機に瀕している。残念ながら、それが今の「世界標準」の姿だ。日本でも、やるなら「今でしょ」みたいな空気が権力陣営側に漂っているように感じる。
 現在の日本国憲法には、権力者を優遇する条文は存在していないはずだ。それを今後も守っていくためにも、憲法改正の話題に国民は注視すべきだ。

 つい先日(2020.12.4.fri)、学術会議問題と同じぐらいショッキングな話題をテレビで知った。それは「Eテレを売却してNHK受信料を値下げする」という話だ。それだけは絶対にやめてほしい。
 なぜなら、地上波で「本物の民主主義・立憲主義」を発信しているのはEテレが唯一の放送局だからだ。民放はもちろん、NHK総合でさえ資本主義に寄りすぎた報道をしていて、中立報道(ジャ-ナリズム)以外は眉唾で観ている。
 自分は「ウィンウィン」とか言う奴は信じないことにしている。当然、前首相の言うことも全く信じなかった。が、NHK総合のアナウンサ-にも言う奴がいて、密かに幻滅していた。ウィンウィンと言っても、それは利害が一致する者同士の関係に過ぎず、その外側で負担を強いられる者は必ず存在する。

都合の悪い部分は伏せたまま強引に押し切ろうとする幼稚な姿勢に、自分はウンザリしている。

 以前は「放送大学」もよく観ていた。大学だけのことはあって、学問の追求は「真実」を追究する議論なので、政治のように詭弁が出てこないところが好きだ。が、BSに移ってしまったので今は観ていない。Eテレの件については、新たに立項(後述)し、もっと長々と書き散らかすことに決めた。