パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

29.対話中に「正義」を持ち出すのはル-ル違反である(フェイク情報に注意)

 人類は地球上の多様な地域で暮らしているが、それぞれがその地域の気候や風土に適した社会を作って暮らしている。
 別社会にいる人間が出会うと、価値観が違いすぎて理解し合うのが困難となり、それは争いの火種となる。だが、価値観が違うのは人間が「多様性」を獲得した証でもある。そして、多様な人々が共生するなら「対話」が必要となる。

 多様性を尊重するのが「民主主義」の基本だ。そして対話とは、価値観の違う者が話し合うことを言う。対話によって双方が納得できる妥協点を探し、共生の道を探る訳だ。ところが、対話の最中に一方が「正義」を口走った途端、対話は台無しになってしまう。なぜなら・・・
 正義とは、その人にとっては絶対に譲ることができないものを指すからだ。つまり「あんたは間違っている。正しいのは俺だ。黙って俺の言うことを聞け」の一点張りで、相手の言うことに「聞く耳持たず」の状態になってしまう。相手の意見もちゃんと聞いてあげないと対話とは呼べないのだ。
 そんな訳で、自分は「正義」という言葉が嫌いである。正義なんて、そのほとんどが「自己正当化・自己弁護」の言い訳にしか過ぎないからだ。「義は我にあり」の意味で正義を振りかざすのはやめてほしい。自分のためではなく、弱者の味方であることが正義の大前提の筈だ。

 SNSでは、正義を声高に叫ぶ人に限って「フェイク情報」を大量拡散する傾向が強いようだ。正義は絶対に譲れないものなので、それゆえ感情的になり易く disり合戦がエスカレ-ト。感情的になった人間は論理破綻し易いのでフェイクに走ってしまうのかな。
 SNSでは「短文発信」に慣れすぎてしまうので、それも論理的思考が育たない要因になっていると思う。上手く説明できない苛立ちが、余計フェイクやヘイトに走らせる一因になっているのではないだろうか。ただ、これだけは言っておくと、フェイクには相手を落とし入れようとする悪意があるのは明白だ。そこに多様性を尊重する意志は感じられない。

つまり、フェイクは民主主義ではない。もちろん正義でもない。

 情報の真偽を確認するには、最低でも5W1Hと出典の明記が必要だと自分は考えている。が、SNSの短文に、それらの情報が漏れなく記載されている実例は皆無に近い。タイムラインを過去に溯っても補足情報はほとんどなく、そのほとんどは発信者自身の主観で脚色されたものだ。
 真実に忠実な情報発信を目指すなら、#when(いつ), #where(どこで), #who(誰が), #what(何を), #why(なぜ), #how(どのように), #source(出典), #reference(参考図書) のようにタグ付けして、誰かが補足情報を追記するだけでも情報の信憑性はずっと増す。自分の頭で考えて工夫しないとSNSは駄目になる。
 短文で正確な情報を伝えるのは、素人には無理だ。プロのコピ-ライタ-でも簡単には書けないのだ。SNSの情報には、必ず何らかの不備がある方が普通だ。つまり、元々SNSの情報は信憑性が低いと考えて眉唾で向き合うべきだ。自分の場合、

ネットで目にする匿名のフェイクやヘイトの類いについては「未熟な子供の仕業」と思うようにしている。見識ある大人のやる事ではないからだ。

 本当の情報が知りたいなら、最初から「出典」として存在するはずのホ-ムペ-ジや書籍を探した方が手っ取り早い。特にネット情報は改竄や悪意の風評によって、簡単に汚染されてしまうので厄介だ。

 真実は常に一つしかない。が、正義は世界中の至る所に転がっていて、至る所で正義と正義は衝突している。正義を賭けた紛争の果てにあるのは決まって最悪の結末である。一方が絶滅するまで止まらないのが「正義を賭けた争い」の常である。それは排他的であり、多様性の否定に他ならない。

 今、これを読んでいるあなた(読者)は大丈夫? 自分が正義の側にいると過信して、自分勝手な思い込みだけで相手を格下と決め付けて馬鹿にしたり、悪者扱いして攻め立てたりしてない? その挙句「誤解だと言うなら、ちゃんと弁解しろ」とか言ったりしてないだろうか。
 もしも自分が、そんなことを言われた日には・・・ 「人を勝手に悪者扱いした奴に、なんで俺が下手に出て、弁解までしなきゃいけないんだ。何様ですか、あなたは」・・・ と思ってしまうだろう。つまり正義の裏には、他者を「敵・味方」で色分けしようとする独善性・排他性が潜んでいる。

 家族や知り合いとの関係が冷え込んで悩んでいる人は多いと思うが、その原因は自分自身にあることが多い。自分の価値観ばかりを一方的に押し付けているので、次第に周囲から避けられてしまうのだ。
 例え実の子供であっても、親と同じ価値観で生きている訳ではないので、れっきとした別人格の人間と認めて「本物の対話」をすべきだ。
 自分の価値基準だけで他者を判断する人は、最初から価値観の異なる人間と対話をする気が無いのだ。そして、価値観が違う他者と向き合えない人間は、相手を母親扱いする子供と何ら変わらないのである。