パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

19.効率的・合理的な「究極の生産最大化」が現実世界で実現できないワケ

 経済は供給能力(潜在GDP)と需要(有効需要)のうち、小さい方で決まってしまう。「潜在GDP」「有効需要」は、国内で実現可能な最大ポテンシャルを表す。
 いくら消費意欲が旺盛でも、潜在GDPを超えた需要には応えられない。逆に需要が冷え込んでしまった時に過剰供給をしても売れ残りが増えたり、安売りしたりで利益が減るので、供給量を絞るしかない。
 だが実際には、どんなに好景気でも潜在GDP上限まで生産が行われることはない。需要は常に、最大供給能力よりも低い水準で推移する(唯一の例外が金融商品だが、それを説明する必要はあるまい)。

 経済学の通説では、これには「価格メカニズムの機能不全」が関わっていると理論展開する。現在の商売は「差別化」「イメ-ジ戦略」「顧客の囲い込み」などを採ることで安易な値下げはしない。逆に迂闊な値上げもできない。
 これが価格硬直性を助長し、需給バランスの均衡点に収束しない商売を成立させる。よって価格競争というメカニズムが働かず、自由競争市場による生産の最大化という効率的・合理的メカニズムが存分には機能しない、という話だ。

 が、新型コロナを経験した今では「イヤイヤ、さすがにそれは違うだろ!」とツッコまざるを得ない。それは経済の表層の話に過ぎず、人間の深層を理解していれば、別の理由があることに気付くはず。つまり・・・
 需要と供給が最大化されないのは、想定外の脅威・リスクへの備えとして「遊び」を設けているからだと考える方が自然だ。「不測の事態」の可能性を考えない経営者は存在しない。人間は行き過ぎた資本主義(合理主義・効率主義)に対して、本能的に防衛反応が働くのだ。

 それに、一般市民は資本主義者が思っているほど強欲ではない。たとえ有効需要に応える潜在GDP上限まで生産する能力があったとしても、平和な生活が保証されるレベルを超えてまで生産しようとは思わない。
 満腹になったライオンは、餌となる草食動物が傍にいても、それ以上の狩りはしないものだ。それは人間だって同じだ。それこそが自然の摂理であり、持続可能社会の原点である。取り過ぎない節度を持つことが、新世界には求められる。

 それだけではない。生産の最大化・効率化による商品価格の安売り合戦というのは「資本家の論理」であって、それは労働所得者の賃金をも抑制しようとする。価格下落が消費者の利益に繋がると言っても、消費者は労働者でもある。労働所得を犠牲にする価格下落が消費者の利益にならないのは自明だ。
 人の行動原理を利己的合理性に求めすぎる経済学には「民主主義」が欠落している。人が幸福を追求する行動原理には、必ず民主的行動が伴う。人間は、民主的な行動を知らない昆虫等とは違う生き物だ。人間はロボットでもない。それを忘れてはならない。

 ところが、残念なことに自分の頭で考えるのをやめ、自らロボットになろうとしている人間が増えているように感じる。経済学が仮定によって規定しただけの「利己的合理性」を真に受けて、自分勝手な行動を正当化する拠り所として利用し始めた。
 現在の取引の多くはシステムによって自動化されている。そのプログラムに利己的合理性が初期設定として入力され、皆がそのプログラムを使えば、市場全体がプログラム通りに動き出すので、まるで利己的合理性が真理であるかのような錯覚に陥ってしまう。これは「確証バイアス」「正常性バイアス」の典型である。

 だが、その初期設定は仮定に基づく証明されていない理論を使っていることを忘れてはいけない。そもそも、プログラムは真理に基づいて設計されるのではなく、目的に沿って設計されているに過ぎない(効率的な金儲けという目的)。
 合理的なシステム化に疑いの目を向けずに従ってしまうと、いつの間にか個々人が全体主義や確証バイアス、正常性バイアスに呑み込まれてしまうリスクがあるのだ。
 効率化を追求しすぎると、資本主義は全体主義と区別がつかなくなる。資本主義は多数派に迎合することで巨大な利益を獲得するため、資本主義と全体主義は非常に親和性が高い。そして・・・

多くの人が口を閉ざしているが、実は民主主義と資本主義は非常に相性が悪いという事実がある。

 民主主義者と資本主義者は、互いに相手のことをゲ-ム理論が言うところの「ナッシュ均衡」を乱すケシカラン奴と思いがちだ。民主主義者は資本主義者のことを「抜け駆けして利益を横取りするズルイ奴」と思い、資本主義者は民主主義者を「せっかくの儲け話に難癖付けてくるウゼ-奴」と思っている。
 民主主義は多様性を尊重し少数派を排除しない。そのため議論に時間をかける。一方、資本主義は少数派を相手にしない。そしてスピ-ドを重視するので民主的な議論に耳を貸さない。
 民主主義とは本来、資本主義とは相容れない思想なのだ。が、民主主義は多様性を尊重するが故に、資本主義者をも排除せず、その存在を容認する。資本主義者は、その寛容さに付け込んで利益を奪いにくるから厄介なのだ。その挙句に証明されてもいない「利己的合理性」を武器に市場を席巻してきた。

 全体主義に組み込まれた個人は、権力に対して無力な存在となる。民主主義を諦めてしまった某国の人民を見れば、それは明らかだろう。彼らは精神的に支配され、ロボトミ-されたも同然だ。仲の良い友人とも、当たり障りのない会話しかできない。
 そんな環境下では「自分の頭」で考える力は育たない。彼らは既にロボット同然だ。とにかく、行き過ぎた効率化・合理化は全体主義や大衆主義(ポピュリズム)へ傾倒するリスクがあることを忘れないでほしい。