パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

今こそ民主主義のスポークスマンが必要…

 今の日本は、新型コロナの感染拡大に歯止めが効かなくなっている。ウィルスの問題では「責任を擦り付けられる悪人」はどこにも居ない。つまりこれは、社会全体で対処する問題である。

 特定の業界のみに痛みを押し付けるのではなく「社会全体で痛み分け」にすべき問題である。

 日本は諸外国と比べれば、強権的なロックダウンもせず、割と民主的に感染対策に取り組んできたと思う。が、その一方で、飲食店・サービス業・医療機関・官僚などに痛みを押し付けてきた。その歪みが今、軋み始めていて、その結果として感染拡大に歯止めが効かなくなっていると捉えるべきだ。

 それを変異ウィルスのせいにすべきではない。ウィルスの蔓延を放置・長期化させた事が、結果的に世界中で変異ウィルスを発生させた直接原因である事を認めるしかない。
 もちろんそれは日本だけのせいではないが、世界が自国第1主義に走る中、結局何もしなかったのは事実なので、黙って現状を受け入れるしかないだろう。

 最近やたらと「これをビジネス・チャンスと捉えて…」などという意見を聞くが、ちゃんと考えれば、それは他人の不幸に付け込んだ金儲けに過ぎない事は明白だ。行き過ぎた資本主義がモラルを麻痺させている現実に気付くべきだ。

 今の我々に必要なものは「ニュー・ノーマル」ではない。従来の理不尽・不公平を持ち越さない「新世界(ニュー・ワールド)」の建設こそ、必須案件ではなかろうか。ニュー・ノーマルは、その後で自然についてくるものである。

 だが、いつまで経っても新世界の実像が見えてこないのは、あらゆるシーンで民主主義を欠如させたまま、強引に事を運ぼうとするからだ。なぜそうなるかと言うと、資本主義の囲い込みが民主主義の実像を隠してしまうからだ。

 例えば、民主主義の思想を書籍というパッケージに閉じ込めて…

「金を払ってくれた人にだけ特別に教えてあげる」

…などという囲い込みを行うのは、民主主義の理念に反している。民主主義が、資本主義によって囲い込まれる事は、絶対にあってはならない。基本的人権によって保証される「民主主義の思想」は、常に開かれていなければならないからだ。
 つまり、民主主義は「オープンソース」でなければならない。自分が「民主主義ファースト、資本セカンド」を提言するのもこのためだ。

 たぶん多くの作家や思想家、報道メディア等が、このジレンマで悩んできた筈だ。民主主義をテーマとした書籍や放送番組で金儲けをする事に「後ろめたさ」を感じる者は多いと思う。だが、そうなると、民主主義の伝道者は「生活費を得る手段」を何に求めるべきか…

 それに対する自分の結論は「寄付を乞う」だった。スポンサーや雇用者の経済的圧力に屈する事無く、一切忖度せずに正しい事を発信し続けるためには、資本主義とは一定の距離を保って付き合う必要がある。
 本ブログを公開した時点で、自分は「資本主義に貢献する仕事」は、もうしないと宣言したも同然だ。今後の自分は、民主主義に貢献する作品を作る「表現者」として生き、そして死ぬつもりでいる。


教育格差・情報格差の解消こそ、信用回復の特効薬…

 専門家と一般人とでは、圧倒的な教育格差・情報格差が存在する。で、難解な専門用語で説明されても「何を言ってるのか、さっぱり理解できない」ので、一般人としては一般用語での説明を望んでいる。
 説明責任(アカウンタビリティ)とはそういう事だ。そうしてくれないと「わざと難しい言い回しをして俺たちを欺いているんじゃないのか?」…みたいな不信感が芽生えてしまう。

 例えば、熱狂的なトランプ支持者の深層心理には、金融工学などを駆使して莫大な利益を独占する「インテリ層に対する不信感」があると自分は考えている。しかも、そのインテリ層の多くが「民主党支持者」な訳だ。
 米国での分断の構造は、我々日本人が考えている以上に根深いと言える。また、その熱狂に便乗する「白人至上主義者」なども居るので、さらに話をヤヤコシくしている。

 ただ、こういう分断も、よく考えれば起こるべくして起きたとも言える。なぜなら、資本主義は「価値観の単純化」を推奨し、それによって「効率化を達成」するため、資本主義の下で働く市民も単純な価値観で物事を考えるようになるからだ。
 要するに「資本主義の利己的合理性」とは、弱肉強食で・早い者勝ちで・初めから持ってる者が有利で・ズル賢い「単純明快な世界観」で成立するので、特に社会の底辺にいる人は余計に頭を使わなくなるのだ。

 「奪ったり奪われたりする生活に、やっと順応したのに、何でそのルールを今さら変えるんだ。ヒドイじゃないか!」…という不満が爆発し、民主主義に敵意を向ける訳。
 自分に不利益を与える奴は撃っちゃえばいい、と短絡志向で行動する訳。米国人がいつまで経っても銃を手放せないのは、そういう社会背景もあると自分は考えている。

 最近、中国大使が米国の民主主義を批判するツイッターを投稿しているそうだが、米国や西側諸国で紛争や分断をもたらしたのは民主主義のせいではない。資本主義の方である。資本主義が他国を食い物にするから紛争が絶えないのだ。
 しかし社会主義だって、資本主義を批判できる立場ではない。全体主義も「価値観の単純化」を強制してくるからだ。効率化には必ず「単純化」という要素が絡んでくる。その点においては全体主義と資本主義は同じである。

 で、そういう不満や不信感を払拭するには、難解な事象を分かり易く言語化できる「能弁なスポークスマン」が必要だ。

 20年ぐらい前までは、宗教界に「ヨハネ・パウロ2世」と「ダライラマ14世」という2人のスポークスマンが居た。彼らは宗教者であると同時に民主主義の能弁なスポークスマンでもあった。
 今までの宗教者は、主のお告げを重々しく伝える「預言者」を演じてきたが、上記の2人は宗教者にしては非常に活動的で能弁だった。

 宗教や哲学、政治経済、最先端科学などは、一般人には難しい話題だ。だからこそ、今こそ能弁なスポークスマンが必要だと感じている。
 で、自分もその一翼を担いたいと思って本ブログを書き始めた。自分は「客観的表現力」なら割と自信がある。が、残念ながら自分にはカリスマ性がない。だから自分は、代わりに「平成不況」で培った知恵を出す。平成不況と今のコロナ禍には共通点があるからだ。

 残念だが、自分には弱者を救える力は無い。自分自身も少数派の弱者だからだ。なので、これを読んでくれた誰かが声を挙げてくれる事を強く望んでいる。今、一番大事な事は、大衆の中に埋没しない「自我と理念を持った人間」の発言であり、それによって大きな「世界世論」を形成する事だ。