パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

09.「豊作貧乏」は民主主義の欠如が生み落とした害悪である

 これは前項の「先物取引」とも関連する話だが、一般的に農作物のような一次産業品は「価格弾力性」が低い傾向があり、大きく価格変動する。価格弾力性が低いと、値下げしても需要は少ししか増加せず、逆に値上げしても需要は少し減少するだけで済む。
 つまり、需要が価格にあまり反応しないので、若干の価格変動があっても儲けがほとんど変わらない現象が起こる。最近では、病院経営や宅配サービスでも豊作貧乏が叫ばれていて、従事者が悲鳴をあげている。但しこっちは、コロナ禍ならではの特殊な事例だ。余剰作物の廃棄に至るような豊作貧乏とは分けて考えるべきだ。

 供給側としては利潤の増加を見込んで値上げをしたいので、多少の値上げでは意味が無い。そこで大幅な値上げに踏み切る。逆に供給過多に陥ると、相当の値下げを敢行しないと買い手が付かないというリスクを抱えている。
 一次産業品を先物市場で取引すると「豊作貧乏」のような現象が起こり、生産者が大損することがある。が、実は豊作貧乏は回避可能だ。一次産業品を一次産業品のまま市場取引するから豊作貧乏が起こるので、今後は一次産業品に付加価値を付けて販売するのが望ましい。
 多くの途上国は農産品や単純な加工品を中心とした産業構造になっているが、一次産業に過度に依存した経済では、どうしても所得が増やせない。特に農産物は、供給を増やしても、それに応じて世界の需要が増える訳ではないので、生産を増やせば増やすほど単価が下がり、豊作貧乏になってしまう。
 しかし、そもそも市場原理の基本は、価格が高すぎれば需要側は買わないし、低すぎれば供給側は売らないのが原則。生産側は、赤字になってまで売るなんて、本来はそんな義理はない。つまり、豊作貧乏が発生する本当の理由は、生産者の言い分が無視された価格設定にある。

頑張った人の「努力」は報われるべきと考えるのが資本主義の原則。経済格差が容認される理由はそこにある。

 ならば「豊作貧乏」という現象を放置するのは良くないと思うべきだ。頑張った生産者が赤字に追い込まれるのを放置するのは、資本主義にとっては「悪」と思わなければいけない。
 需要曲線と供給曲線が交わる「市場の均衡点」によって自然に豊作貧乏が発生するのだから、それは仕方がないと達観するのが経済学のスタンス。このスタンスでは、社会の中で「不条理な犠牲者」が出ることを容認している。容認してしまう理由は、効率の最大化の事しか考えていないためだ。

 ところで、人は一人では生きてゆけないから社会を作っている。これは「個人を守るために社会がある」と換言できる。これこそが民主主義の大原則だ。そう考えると、経済学の考え方には「経済のためなら平気で個人を犠牲にする」という社会主義的思考が読み取れるのだ。
 ここで注意すべきは「個人を守るために社会がある」とは、個人のためなら「利己的に社会を利用しても良い」という意味ではないという事だ。それは「ギブ&テイク」の前提で成り立つ社会に反する行為だからだ。

 もしも社会が「利己主義者の集団」で構成されていたと仮定すると、その集団が連帯して一致団結するのは難しい。利害の不一致によってその社会は分断され、いずれは社会そのものが破綻することになる。それと同じことが、今まさに米国で起こっている。米国は社会の危機と対峙している。
 民主主義は「多様性を肯定し、互いの意見を尊重する」ことから始まる。「利己主義を追求した挙句の個人主義」とは断じて異なるのだ。「テイク&テイク」ばかりする個人主義者を、昔はアウトロ-(ならず者)と呼んだものだが、資本主義はアウトロ-を肯定し過ぎだ。

人間を「利己的な合理性で動くと仮定」した経済学は、その出発点からして既に民主主義が欠落している。

 複雑な経済を大域的に捉えるため、敢えて「人間を単純にモデル化」するというアプロ-チ自体は否定しない。物理学等でも対象の単純化は頻繁に行われている。が、その単純化を盲信した結果、民主的行動が「非効率」なものとして安易に否定されるとしたら、それを黙って見逃す訳にはいかない。
 それに、自然科学におけるモデルの単純化は普遍的な法則などを対象としている。さらに、微分積分等を駆使した末の、科学に裏打ちされた単純化を行っている。科学的な単純化と比較すると、経済学が出発点としている「人間の行動原理の単純化」が、数学的に証明されているとは思えない。自分には「利己的な資本主義者」にとって都合良く作られた贋作としか思えない。
 という訳で、経済学を鵜呑みにした結果として、米国は社会危機に陥っているのだと言っても、あながち間違いとは言えないのではなかろうか。経済学では人間を「冷酷非情なプラグマティスト(現実主義者)」として変数化している。これを「一般化」と呼ぶのは、さすがに無理がある。

 自分は経済学の本を読む度に「言い様のない嫌悪」を感じてきた。自分にとって、経済学の本を読むことは苦痛以外の何物でもなかった。経済学は「資本主義を肯定する学問」を装っていながら、そのアプロ-チには社会主義的ロジックを用いている。経済学では、社会を上から俯瞰して見る癖が付いてしまうので、どうしても社会主義的ロジックに陥り易い…
 この矛盾を誰も指摘しないのが、自分には不思議でならない。或いは、矛盾を指摘する人はいるが自分が知らないだけ? で、自分は「経済学および資本主義は民主主義ではない」という結論に達した。少なくとも効率を優先し過ぎる資本主義は、民主的な言動を時間のロスと考え、軽視する傾向がある。

 それはともかく、豊作貧乏を無くす仕組みを作る必要がある。豊作貧乏が生まれる要因として「先物取引」がある。先物価格が生産コストよりも安くなった場合、その損失を生産者に押し付けるべきではない。生産者にとって価格暴落は、そのほとんどが「外部要因」だ。生産者が非を問われる事案はほとんどない。
 消費者の利益の裏に「生産者の損益」があるとしたら、それは社会にとって「利益の最大化」が達成されたとは言えない。先物取引を加熱させた当事者は「商社」や「投資家」、あるいは「国益を優先する国家」なので、彼らがコストを負担すべきだ。

 が、これだけでは足りない。豊作貧乏に陥る商品は、元々「価格弾力性が小さい」ので、供給に対する需要が限定的で、売れ残りが出てしまう。そこで、生産者が商品に新たな付加価値を付けて売る権利を認める。
 今までの市場(正確には市場関係者)は、一次産業の生産者が付加価値を付けて販売することを認めなかった。それには衛生上の問題もあるとは思うが、本音は安く仕入れたい、つまり「利害」にあるのはミエミエだ。今後はそれを解決し、改めるべきだ。
 具体的には、商品寿命の短い野菜などを「真空保存」できる倉庫に保管できれば、需要が発生する都度に倉庫から出して新鮮なまま出荷できるようになる。従来では、野菜などの生鮮物は長期保存ができなかったので、売れ残りは廃棄するしかなかったが、現在の技術なら、ある程度は保存可能だ。要するに、売れ残りが「在庫投資」に算入できる。

 豊作貧乏は、商品が一挙に市場に放出されるために起こる現象だ。ならば小出しに出荷する仕組みを作れば良い。今後の一次産業品はストックではなく「フロ-」として扱う。で、これまでとは違って付加価値が付く。
 要するに「調整弁付きの一次産業」へと変化させる。従来の大量生産・大量消費・大量廃棄といった資本主義の価値観を見直し、資源を無駄にしない「持続可能な産業」を目指すべきだ。
 一次産業は人の生存活動には欠かせない、衣食住に直結する必須の産業だ。なので自給率を高めておくことは非常に重要だ。一次産業の安定供給は内需の安定化にも繋がり、国益に適ったものと言えるだろう。