パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

23.XX主義、XXファ-スト、世界標準を疑え(100年前の歴史を繰り返さない)

 行き過ぎた資本主義は、しばしば倫理、自然感、そして民主主義と矛盾する。矛盾するのは資本主義に重大な欠落があるからだ。それは人間の経済活動という「視野の狭い価値観」だけを重視していること。大衆を資本主義という一つの価値観へ誘導することで、究極の効率化、合理化を達成する。
 このような効率化は「XX主義」とか「OOイズム」のように価値観を単純化する全ての思想に言える。唯一の例外が「民主主義」である。民主主義は価値観の多様化を肯定する思想だからだ。大衆を効率的に管理する点において言えば、資本主義も社会主義(全体主義)も大差ない。

 今の状況は、100年前の歴史とあまりにも酷似していて非常に危機感を抱いている。ちょうど 100年前、「スペイン風邪」「第一次世界大戦」により米国以外の世界は疲弊しきっていた。
 が、大量生産・大量消費に湧いていた米国も調子に乗りすぎた。生産過多に陥ってデフレが始まり、株価は大暴落(1929年10月)。これが「世界恐慌」の発端となった。世界恐慌の最中では各国が保護主義に走り高関税の応酬など、現在と全く同じ事をやっていた。
 そんな暗黒の時代に大衆は強力なリ-ダ-を欲し、選挙によってムッソリ-ニやヒトラ-が当選。公共事業での経済立て直しまでは良かったが、その後はファシズムが吹き荒れ、第二次世界大戦(1939年9月)へ突入。独裁者は選挙によって、大衆によって選ばれてしまった。

 第二次大戦中、当時の大日本帝国も「大東亜共栄圏」「東亜新秩序建設」などという甘言を掲げ、アジアでの利権を拡大した(アジア・太平洋戦争)。
 現在、中国が掲げている「一帯一路」構想も、当時の大東亜ナンチャラと本質的に同じ気がする。大日本帝国に苦しめられた筈の中国が、かつての日本と同じ過ちを犯しそうで、ちょっと怖い。武力を見せびらかして相手を威嚇するのも外交の範囲内とは思うが、ちょっと行き過ぎな気もする。
 当時の日本(大日本帝国)と現在の中国には、どちらも一部の特権階級によって国家が運営されているという共通点がある。しかも、資本主義の利己的合理性に毒された国家や大衆は、みんな傲慢になってしまう。現在の中国が、当時の日本のように暴走しないことを切に願う。

 100年前に起こったことが、また繰り返されようとしている気がしてならない。最近「OOファ-スト」という言葉をよく聞くが、これは「OO主義」と言っているのと同じだ。しかもOOファ-ストという言葉の裏には、OO以外に対しては排他的・・・というニュアンスが漂っている。
 なんとなく格好よさげに聞こえる言葉ほど疑ってかからないと、知らぬ間に取り返しが付かない所にまで悪夢は進行する。分かり易いキャッチフレ-ズ、ソロ-ガンこそ疑ってかかることが重要だ。

 21世紀になると「大衆による先制君主」が顕著になってきた。それにはスマホとSNSが深く関わっている。本来、先制君主とは1人の独裁者によって成立してきた。が、今ではSNSで瞬時に情報共有されることで、大衆の意見を社会が無視できなくなった。大衆の意見が連帯を欲していれば社会は平和に向かうが、大衆が我儘な私利私欲へ走ってしまうと市民は分断され、社会不安が増大する。
 日本は「世界標準」を目指さなくていい。多数派(大衆)や世界標準の方が間違うこともよくある話だからだ。資本主義は、特にマスメディアは大衆に逆らえない。大衆は「金の成る木」なので、大衆を批判することは資本主義ではタブ-になってしまうのだ。

 とにかく、ポピュリズムに踊らされず、正常性バイアス、確証バイアスなどに流されず、自分の意志を貫ける強い精神を育んでいくべきだ。そのために必要なことは、外部から入ってくる情報を無条件に信じず、必ず「自分の頭」で考えてみることだ。
 疑うことは必ずしも悪いことではない。それは自分の頭で考えるための原動力にもなるからだ。なので「方法的懐疑」を、もっとポジティブに捉えてほしい。