パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

01.「民主主義」だけは絶対に守れ!

 敗戦から今日(2020年)まで、75年にわたって日本の領土内には外国の軍隊が駐留し続けている。要するに事実上、日本は米国の属国ということだ。にも関わらず戦後の日本は、皮肉なことに米国以上に民主的な国家を運営してきた。独立国家とは呼べないはずの日本が、米国よりも成熟した民主主義を育んできた。実に不思議なことだが、それには「日本国憲法」が果たした役割が大きい。そして憲法を守ってきたのは、先人(故人)の良心を受け継いできた「立憲主義」だ。
 今回のパンデミックでは、欧米諸国は強権を使い、市民の権利を制限する命令を発動し都市封鎖にまで踏み切った。これは封鎖区域の市民を犠牲にする可能性を示唆するものだった。それに対して、日本では「**要請」「**指示」の通知に留めた。これは、日本政府や自治体が市民の良識に委ねる「民主的」なやり方を貫いたことを意味する。まあ、これは日本が海に囲まれた島国であることも大きいが・・・。

 日本では、皆が我慢している時に一人だけ勝手な行動を取ろうとしても、周囲の「同調圧力」がプレッシャ-になり、結局は我慢せざるを得ない状況になる。そのため強権を発動しなくても、道理さえ通っていれば政府や知事の指示に市民は従う傾向が強い。日本人は「空気」を読み、それが同調圧力を生む。これは民主主義にとっては、ずいぶんと息苦しいものではある。空気の支配、そのプレッシャ-は非常に強烈で、それは時として民主主義を蝕む方向へ向かう場合も多い。なので、その国民性を手放しで喜ぶことはできない。
 が、今回のパンデミックでは、武力・権力に頼らず「科学的見識」に基づき方向性を決め、多くの人がそれに従った。それは事実であり、民主国家として自負できるところだと思う。現在の日本は資本主義色の強い国だ。企業間競争は熾烈で、人々は勝ち負けに翻弄される日々を送っている。しかし同時に、日本は非常に災害の多い国でもある。火山噴火・地震津波・台風・洪水・大雪・・・ と、様々な災害に襲われる。で、人知を超えた災害に遭うたびに、日本人は思い出すのだ。

人間は一人では生きてゆけない。だからこそ社会を作り、協力して生きているのだと。勝ち負けなんてものは所詮、人間同士のくだらないイザコザに過ぎないのだと。

 これは蛇足だが、「協力し共生する」・・・ これを知識人は「連帯」と呼びたがる。だが自分は、連帯という言葉はあまり好きではない。連帯というと、なんか世界史の受験単語ぐらいにしか感じられず、実感が伴わないからだ。
 普段、人が自由競争にこだわっていられるのは社会が平和だからだ。その平和が脅威にさらされたなら、人は協力して行動する必要がある。日本人は災害慣れしているので、競争から協力へのスイッチ切替えが早い。これは国民性の「良い方」の一面と言える。戦後日本は、経済成長によって先進国の仲間入りを果たしたが、これからは「民主主義の先進国」としてリ-ダ-シップを発揮できるかもしれない。ただし不安材料もある。日本最大政党の「自民党」が米国共和党に寄りすぎている所は特に不安だ。
 自民党は米国共和党と同様、資本主義陣営の政党だ。資本主義は少数派を相手にしない。多数派を相手にした方が儲かるからだ。相手にされない少数派は不遇な境遇に据え置かれ、淘汰されてしまう。資本主義という価値観に適応した者だけが優遇されるので、結果として多様な価値観が失われていく。資本主義色の強い国では、自分が少数派になることを恐れるため、一種の「全体主義」的な空気に呑まれやすく、それがポピュリズム(大衆主義)を蔓延させる。
 それが際立ったのが今回(2020.11.3)の米国大統領選だった。今まで優勢だったはずの「白人層」が、人口比率で有色人種層よりも少数派に転落しつつあるからだ。資本主義色の強い米国で少数派になる恐怖が、白人労働者を「トランプ支持」へ駆り立て、国家を分断したと自分は思った。白人がよりいっそう恐怖を感じている理由は、今までの自分達が加害者・迫害者側でありながら、多数派ゆえに優遇されてきた事実があるからだ。少数派になれば、その立場は逆転する。つまり、罪の自覚があるからこそ、余計に恐怖を感じる訳。語るに落ちたと言えるだろう。

 権力側の視点で見ると、大衆を一つの価値観へ誘導して支配するなら、資本主義は便利な価値観といえる。最近、社会主義国であるはずの中国が資本主義色を強め始めた割に意外と違和感がないのは、社会主義が唱えてきた全体主義が、実は資本主義との親和性が思った以上に良かったからだ。一方、民主主義は少数意見にも耳を傾け、妥協点を探す努力をする。少数派を安易に排除したりはしない。結果、それが多様な価値観を生み出す。民主主義は多様性を肯定する思想なのだ。この点において資本主義と民主主義は「完全に別物」だと分かる。
 資本主義の本質は「早いもの勝ちのイス取りゲ-ム」だ。そのためスピ-ドと効率を重視する。一方の民主主義は、多様性に配慮するので時間をかけてじっくり対話し、皆が納得するまで議論する。民主主義が機能している議会では、延々と議論が続き、なかなか結論に達しないので効率主義者は苛立ち「強力なリ-ダ-シップで素早くビシッと決めてくれよ」などと絶えず文句を言う。
 だが、議論に時間がかかる事こそ民主主義が正常に機能している証でもある。結論を急かす行為は、民主的な手続きに水を差す危険な行為になりかねないという事実を、国民はもっと理解する必要がある。

 やたらと「スピ-ド」を連呼する人は、資本主義者か、もしくは資本主義に無自覚に洗脳されている可能性がある。上司から常にスピ-ドを要求されている社員は、資本主義という価値観に洗脳され易い。2021年2月、「女性は議論に時間がかかるから・・・」などと発言し辞任に追い込まれたJOC会長がいたが、これは女性蔑視以前に、長年に渡って民主主義を軽視してきた資本主義政党の本音の露呈が招いた当然の帰結だったと考える。民主主義にとって、議論に時間をかけるのは悪いことではないのだ。
 資本主義色の強い安倍政権が、今回の危機に対してほどほど民主的な対応を取れたのは、憲法による縛りが効いていたのと同時に、世論が良心的な行動を欲したためだ。資本主義は多数派(大衆)を裏切れないので、世論がブレなければ民主主義は正常に機能する。逆に、正常性バイアス・確証バイアスなどによって世論がブレてしまうと、選挙によって独裁者が当選したりする。民主主義には、そんなリスクが常につきまとう。そこで何よりも大事なことは・・・

如何なる民主国家においても「民主主義」とは常に保証されている訳ではなく、市民の意志と行動によって勝ち取る必要がある。

 つまり民主主義とは、状況や状態(途中経過を切り取った暫定結果)ではなく「プロセス」であり「フロ-」であり、如何なる時においても現在進行形の事案なのだ。民主主義は、常に揺れ動きながら獲得されていくものである。米大統領選でバイデン氏が勝利宣言をした時(2020.11.8.sun 日本時間)、カマラ・ハリス氏が同じようなことを言っていたのをテレビで観た人も多いだろう。
 民主国家の国内には「民主主義を否定する者」も居住する。だが、民主主義は多様性を尊重するので「民主主義の敵」の意見にも耳を傾け、対話をする必要がある。つまり「敵と共に統治する」 ・・・これこそが民主国家の礎となる。今回(2020.11.03)の米大統領選の大混乱は、それを見事に実証してみせた。ただ、分断の行方が心配ではある。政党とは利害関係だけで囲い込まれた集団に過ぎない。人間関係は利害だけで選択できるものではない。それを忘れるから分断が起きるのだ。
 民主主義は多様性を尊重するので、いっそ米国人口「3億分の1」まで分断してしまえば、逆に上手くいくと思う。要するに、個々人を孤独に向き合わせることで「個人の自立」を促すのだ。孤独は必ずしも悪い事とは言えないのだ。結局、大統領を1人しか選べないことが争いの元になっていると感じた。これからの国家運営には、一人の最高権力者による統治ではなく、複数人の代議士が円卓会議を行って決めるのが望ましいのかもしれない。

 ところで、民主国家の大半が「多数決制」の政治を採用している。が、多数決には少数意見が反映されない欠点があり、それは民主主義の阻害要因になっている。政治は多数決の世界ではあるが・・・

少数意見を無視出来ないように仕向ける。

…野党にそれが出来れば、過半数を占める与党による強行採決を阻止することは充分可能だ。現在の政治は「数の論理」だけでは動かないし、そうあるべきだ。今回の緊急事態において、日本がハンガリ-のようにならなかったのは、日本の民主主義が正常に機能した証だと思っている。最近よく「日本はもっと世界標準を目指すべきだ」・・・という意見を見聞きするが、それに対して自分は、こう思う。

日本は世界標準を目指さなくていい。

 「世界標準」などと言うと、まるでそれが「正義の中心」にある優良規格のように聞こえる訳だが、たぶんそれは巧妙に作られたプロパガンダだ。少なくとも自分は、そう感じている。つまり、ポピュリズムを煽って「自分にとって都合の良い方向へ大衆を誘導しようと企む側」のプロパガンダだ。ポピュリズム(大衆主義)や「**ファ-スト」などが吹き荒れる現在においては、世界標準の方がよほど危険な匂いを発している。特に「**ファ-スト」などは「**主義」と言っているのと同じで、**以外に対しては排他的なニュアンスを含んでいるので要注意だ。
 ポピュリズムプロパガンダに流されずに自己を保つには、一見すると分かり易そうな「スロ-ガン」や「キャッチフレ-ズ」こそ疑ってみることが有効だ。本当に分かり易い言葉とは、相手を納得させる明快な「理由」や「動機」なども付いてくるので、短いフレ-ズでは表現できなくて当然なのだ。その辺りを考慮すると、スマホとSNSの組み合わせは非常に危険だ。一応インタ-ネットに繋がっているので、世界に開かれた環境下にいるように感じるが、実際はフォロ-しあっている仲間同士の閉鎖的なやり取りが多く、反対意見と真摯に向き合う機会は非常に少ない。そして短文でやり取りする。

 自分はSNSを、ポピュリズムを煽って大衆を単一の価値観へ誘導するための「アジテ-ション・ツ-ル」だと感じている。実際、大衆を操作するには、長ったらしい理由・動機・意図などを説明するよりも、簡潔なフレ-ズを利用した方が手っ取り早い。短文を呟き発信するSNSは、アジテ-ションに最適化された強力なツ-ルといえる。煽動を企む側も、それを充分にわきまえていて最大限に利用している。実際、一国の大統領や元首が、ちょこっと呟いただけで、株価や為替相場は敏感に反応する。
 欲が充満した今の社会で、自分を見失わないためには、どうしたら良いか。まずは「短文」を真に受けない。スロ-ガンやキャッチフレ-ズを疑ってみる。裏付けとなる出典(情報源)を探す努力をすれば、尚良い。そのようにして、自分の心に引っ掛かった「あのキャッチフレ-ズ」を最初に言い始めたのは誰だったのかを、ちゃんと記憶しておこう。そうすれば無責任な意見に振り回されて自分を見失うことはなくなる。自我の維持には日頃からの鍛練が必要だ。
 そして、ブレない自己を持った人が社会に存在するということは、その社会をも成長させる。ブレない人間が一人いるだけで、その周りの人々も次第にブレなくなる、ということだ。短文を疑うようになると、自分が発信側に回った時の心構えも変わってくる。が、最初はどう書けば良いのか分からないと思う。お手本としては、短文ではなく長文を読む習慣を身に付けることを奨める。読書が苦手なら、最初は漫画やアニメでも構わない。注意深く見れば、そこにも重要な情報が読み取れるからだ。

 現在、日本の漫画やアニメが世界中で愛されている。それは作品のクオリティが高いのもあるが、それだけではない。要は、作品中の背景や世界観に「民主的」な香りが漂っているために、民主的とは言えない世界に住んでいる読者・視聴者から羨望の眼差しで見られているのだ。漫画やアニメ、ライトノベル、J-POP などを通して「民主国家・日本」は世界中から見られている。日本人はその視線があることを意識しなければならない。

日本人は漫画やアニメを通して、いつの間にか民主主義を「輸出」していたのだ。

 外国の民主化運動家の多くが、日本に対して「強い期待感」を寄せている。それは、日本の娯楽作品が彼らを励まし続けてきたのが大きいと思っている。高尚な学問や文学ではなく、庶民向けの娯楽作品で民主主義を輸出していた。そんな国は日本ぐらいだろう。資本主義を輸出することなら社会主義国にもできるが、民主主義を輸出できるのは民主国家だけである。日本にとって民主主義とは、ただの概念や思想ではない。最重要「輸出産業」と言っても過言ではない。日本を訪れる観光客は、実は「民主主義を求めて」来ているかもしれないのだ。
 日本の民主主義が死んだら、日本の漫画やアニメも死ぬだろう。アニメ・漫画に限らず、日本の産業の多くが民主主義あっての産物であることを忘れてはいけない。そんな訳だから、何があっても民主主義だけは絶対に守らなければならない。

 元々、日本のアニメや漫画は「オタク文化」などと言われ、蔑まれてきた歴史を持っている。つまりアンダ-グラウンドの文化であり、少数派が支えてきた文化である。だからこそ、彼らの作品には民主主義が色濃く反映されるのだ。「少数派に不利益を押し付けない」ことが民主主義の本質だからだ。それによって多様性が保障されてこそ、画期的なイノベ-ションも生まれてくる。
 誰もやったことがないことを生み出すのがイノベ-ションである。つまり、その発案者は常に「孤独」と向き合わされる。彼が生きるために、民主主義が必要なことは容易に想像できるだろう。

民主主義とは単なる思想ではなく、社会的動物としての「現代人の本能」と言っても過言ではない。
誰だって「自分の個性が否定されずに暮らせる世界」を望んでいるからだ。

 民主主義が保障されていれば、それだけで市民は安心して暮らしていける。世界の政治家たちは民主主義をナメ過ぎている(日本の政治家も含む)。権力で民主主義を抑え込むなど、人間の本質を否定する行為である。実質上は米国の属国といえる日本が、実は米国以上の民主主義大国に成り得る潜在能力を持っていることに世界は注目している。その潜在能力の根源は、誠実な暮らしを営んできた日本国内の「庶民の意志」に他ならない。それは、世界標準に合わせようとする日本政府の意志とは別物である。
 日本の政治家は、この点をちゃんと理解すべきだ。「ク-ル・ジャパン」などと言って、上っ面の経済効果ばかり見ていないで、成功の裏にある本質を見抜く目が必要だ。