パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

民主国家は「中ぐらいの政府」を目指すべきである

 「大きな政府 vs 小さな政府」の二択論争には重大な見落としがある… なぜなら、実際には選択肢は三つあるからだ。「中ぐらいの政府」が三つ目の選択肢だ。民主国家は「中ぐらいの政府」を目指すべきである。

 大きな政府と小さな政府では、どっちがいい? という考え方自体が「確証バイアスの罠」に陥っている。どちらも極端すぎるのだ。

確証バイアスは過信や盲信、正常性バイアスは依存心が生み出す。

 この心理を逆手にとる事で「バズる」が生まれる。今の資本主義はそれを利用し過ぎている。ベストセラーが必ずしも良い物とは言えない状況になってしまっている。

 「小さな政府」の行き着く先にあるのは「利己的な個人主義」だ。それは「社会がギブ&テイクで成立」している事を忘れてしまった大衆が、群れ、漂う「反社会的社会」という矛盾した社会を形成する。
 それは米国を見れば一目瞭然だ。結果、米国で分断が起きた。特に米国の小さな政府は医療費が高すぎる。人の命が安い訳ないという理屈らしいが、風邪やウィルス程度で人がバタバタ死ぬのが高い命と言えるだろうか。
 資本主義の主張には「ん? 何か変だ」と首を傾げる論調が多すぎる。それは自身を正当化するための「後付けの科学」が未だに蔓延しているためだ。「奴隷は人間ではないから…」みたいな 100年前の科学を平気で押し付けてくる。

 一方、「大きな政府」が目指すのは「究極の管理社会」だ。それは、社会を外側から管理しようとする「指導層の独裁」を許す事になる。その結果「社会のためなら平気で個人を犠牲にする」風潮が日常化する。
 人間は一人では生きて行けないから社会を作っている。つまり、自分(個人)を守るために社会はある。そう考えると、社会主義が根本的な矛盾を孕んでいるのは明白だ。

 小さな政府・大きな政府という概念は、それぞれが資本主義・社会主義と直結した「政府の針路」を示している。そこから、【1】民主主義と社会主義の違い、【2】民主主義と資本主義の違いも見えてくる。

【1】民主主義は努力を評価するので、ある程度は競争や格差を容認する。なので、民主主義は共産主義よりも厳しい。民主主義では「個人の自立」が求められる。同時に、社会は個人を守るためにあるので、社会のために個人が犠牲になる事は容認しない。その点においては、民主主義は社会主義よりも個人に対しては優しい。

【2】民主主義は多様性を尊重し少数派を排除しない。そして、世界の利益は有限なので、一部の人間が富を独占する強欲を許さない。なので勝者にも自制と節度が求められる。民主主義は、際限なく利潤追求しようとする資本主義に対して「水を差す」存在となる。民主主義と資本主義を同義語と勘違いしている人が多すぎる。それらは全くの別物である。

 小さな政府(資本主義)も、大きな政府(社会主義)も、どちらも割と安直に「弱者を犠牲にする」という共通点を持っている。
 人間は一人では生きて行けないから社会を作っている。つまり、自分(個人)を守るために社会はある。だが、その社会は、強欲な人間が利己的に利用するために存在しているのではない。
 個人が社会に協力する対価として個人の尊厳が保証される…それが民主主義の基本だ。民主主義を実現するには「大きな政府・小さな政府」は、どちらも極端すぎるのだ。「中ぐらいの政府」…つまりバランスが重要って事。

 極端な価値観への傾倒は、効率化にとっては有利だが、それは同時に多様性を消失させ、人類を弱体化させる。今年(2021年)で21世紀も20周年だ。そろそろ人類は「二項対立」の呪いから解放されても良い頃だと思っている。