パンデミック後の新世界を作るために (foussin’s blog)

(『見捨てられた世代』からの提言)

00.まえがき:

 著者は自分のことを「見捨てられた世代」だと思っている。見捨てられた世代とは何か、そんなことをのたまう著者は何物なのか、本来なら、まずはそこから説明すべきか。でないと、この後で述べる「提言」が説得力に欠けたものになってしまうので。が、それは著者の個人的な経験や思考によって培われた思想なので、それを説明すると著者の「単なる自己紹介」になってしまう。
 一つだけ言わせてもらうなら、著者は立憲主義者、民主主義者であり、行き過ぎた今の資本主義・大衆主義(ポピュリズム)を憎んでいる。なぜなら、著者自身が資本主義から相手にされない「少数派の経済弱者」だからだ。それをわきまえた上で、以降の文章を読んでほしい。

 本書の内容を簡単に要約すると、今回のコロナ・ショックで問題になっているのはウィルスよりも経済格差の方で、それが社会を混乱に陥れていることを強調。で、格差拡大を助長したのは富裕層優遇のインフレ経済政策であり、それは民主主義軽視の資本主義体制によってもたらされた。そんな今だからこそ「本物の民主主義」が必要だと訴える。
 資本主義では「利己的な合理性」で人が動くと仮定した経済学を根拠にしているが、人の幸福追求には「民主的」な行動が伴うことを忘れている。つまり利己的合理性だけでは社会は動かない。

「民主的な思想」も社会を動かす立派な要因であると著者は訴える。

 著者は政治・経済の専門家ではないが、自分なりに参考文献や資料に目を通した上で、コロナ・ショックで疲弊した人々、特に経済弱者にとって何が必要なのか、何が助けになるのかを「自分の頭」で考え続けた。政治・経済の専門家は経済的に恵まれているため、経済弱者が味わっている苦痛に鈍感な面がある。なので、いつまで経っても社会の底辺にいる人々への救済策を提示してくれない。だからこそ、経済弱者である著者自身が発信することに意味があると考えた。著者は政治・経済の専門家ではないので、当文章は専門書ではなくエッセ-の体裁で、フランクな文章で綴っている。まあ、ブログだし・・・。

 平成不況時代では、弱者が何を訴えても「負け犬の遠吠え」ぐらいにしか受け取って貰えなかったが、今回は日本限定ではなく世界全体での大問題である。現状のパンデミックの混乱は、もはや各国個別の努力だけで乗り切れるレベルではない。そこで全世界が協調しての「パンデミック恩赦」という発想が必要だと訴える。その考えをここで提案させていただく。全世界が本気で連帯できれば、こんな事だって可能なんだよ・・・ というアイデアを提案する。それを「理想論」「空想的アイデア」などと言うべきではない。深く考えずに諦めてしまったことで、世界は「食料危機」「パンデミック」「地球温暖化」などのリスクを招いた事を自覚しなければならない。
 読者の多くは「パンデミック後の世界」が希望の持てる「新世界」であってほしいと願っているはず。という訳で、著者の素姓は最終章(あとがき)で明かすことにして、直ちに本題の「提言(提案)」を始めたい。

 なお、本文では著者自身のことを「自分」と書いている。これは著者「パブロ・フ-サン」が、ブログで書いていた時の一人称表現としての「決め事」である。自分はかつて、様々なブログ・サ-ビスで執筆してきたが、全て「表アカウント」の同一人物であることを表明するために、文体に「他人に真似されにくい仕掛け」を色々と仕込んでいた。「一人称 "自分" 取り決め」もその一つと思ってほしい。
 また、当文章では「頭の頭痛が痛い」のような重複文を多用している。アナウンサ-や校正者が見たら「気になる文章」が多くて内容に集中できないかも知れない。だが、重複文には「強調」の効果がある。しつこく強調する事で、読者の脳に内容を刻み付けようと企んだのだ。さらに、重複文は口語表現に近いため、学歴に関係無く「頭にスッと入ってくる」という分かり易さがある。当文章は「正しい文語体」よりも「分かり易い口語体」を重視している。
 あと、当文章には「似たような内容」が何度も登場する。文章表現の基本に「起承転結」というものがあるが、当文章では「同じ起句から違う結論」へ展開(転回)したり、逆に「違う起句から同じ結論」へ導いたりしている。これは「コピペ多用文章」とは違うことを申し上げておく。これが意味するのは「人の思考は多様である」ということ。真実は常に一つしかないが、社会には正解が多様に存在する。民主主義は多様性を肯定する。当文章の面倒臭い表現に触れることで、若い読者が民主主義を見つめ直す良い機会になればと期待している。